鰻の蘊蓄

 
 

鰻料理の起源

日本人が鰻を食した最古の記録は万葉集にあると言われています。 文献に現れて最初の鰻の話は、大伴家持が吉田石麻呂に宛てた「喘咲痩人(やせびとあざけりてわらう)」 と題する 鰻の歌。

石麻呂に  吾物申す  夏痩せに 吉しと言うものぞ  武奈伎とり食せ


これに対する吉田石麻呂の反歌。

痩す痩すも 生けらばあらむ  将や将   武奈伎を漁ると 河に流るな


万葉集巻十六「有由縁雑詠」の中の二首の歌です。

当時鰻はご馳走としてではなく滋養分の供給源として、いわば薬品の代用として食べられていたであろうと 想像されます。つまり現代で言えば栄養ドリンク剤に相当するでしょうか。

中国では輪切りにして漢方薬とともに煮て食べる料理法があるとのことです。

しかし最初に鰻を食べたはかなり勇気があったと思いませんか?余程お腹を空かせていたのでしょう。 また万葉集の時代に既に鰻料理は滋養強壮に効くと言うことが知られていたという事は、先人の偉大さに 敬意を払わざるを得ません。

このころの料理法はそのまま輪切りにして焼いて、或いは煮て食していたのではないかと想像されます。

時代は下って室町時代(15~16世紀)になると「宇治丸」(うじまる)と言う料理法が現れます。 「宇治丸」とは山城国宇治川で捕れる鰻のことを言うのですが、料理の方法として「丸に炙りて後に切る也。 醤油と酒を交えて付る也。」「山椒味噌をつけて出しても吉也。」と紹介されています。 その後「宇治丸」という料理は鰻の酒漬の別称になります。

江戸時代に刊行された「嬉遊笑覧」の飲食編に寄れば「宇治丸」は鰻の鮓(すし)としてあります。 また室町時代に「蒲焼」「鰻鱠(うなぎなます)」と言う料理法が記録されていますが、 「蒲焼」は現在のものとは別の料理法で、「蒲の穂」に似た形の鰻の丸焼き、或いは現在の竹輪のような 料理ではなかったかと思われます。

現在のように冷蔵・冷凍と言うことが考えられない時代に食品を貯蔵するために発達した 鮓(すし)鱠(なます)はともに塩と酢を使った保存方法で、現在の寿司とは異なり、 塩漬け鰻・酢漬け鰻と言った食品であったと思われます。

この頃から鰻は保存してでも食べたい食品であったのでしょう。

 
 

鰻料理の発達

江戸時代にはいると、鰻料理は画期的な進歩を遂げます。

それまでは丸のまま焼いて調理していたものが、腹から裂いて串を打って焼く、と言う形に変化しました。 調味料も醤油をベースにしたタレが開発され、現在の蒲焼の形に近づいて来ました。 ここまでは当時の料理の本場である上方(関西)における料理法の変化であると思われます。 現在でも関西風の鰻は、腹から裂いて一本のまま金串を打ち、そのまま地焼きにします。 タレも醤油(たまりの場合もあり)・酒・砂糖を使用したどちらかと言えばどろっとした感じのものです。

一方江戸においては、江戸独特の食文化が発達し、鰻料理も上方とは異なった発展をします。 この食文化を一言で表現すると「江戸前」という言葉になります。狭義の「江戸前」とは江戸の前面の海 (江戸湾・現在の東京湾)で漁獲された魚貝類、或いはそれを素材とした料理のことでしたが、 江戸の町が大都会になるに従って、江戸料理のことを「江戸前」と呼ぶようになります。

その頃鰻は深川周辺でよく獲れたようで、江戸時代の深川の風景画には「江戸前大かばやき」 と幟を立てた露店がよく描かれています。 また深川の運河である小名木川は「うなぎ」に通じる名前であると思われます。

さてそれでは「江戸前」の特徴とは何でしょうか?一言で言えば「小味」であると言うことになります。 コク・旨味は十分あるがくどくなく大味ではない。これが江戸前の真髄であります。

では鰻料理はどの様な変化を遂げたのでありましょうか?まず武士の町江戸では腹から裂くと言うことは 切腹に通じるため、背裂きになりました。ところが背から裂いた方が出来上がりの形が良くなり、 これを2分し竹串で上下を貫いて打ち、現在の蒲焼の形になりました。次に「小味」を追求するため、 から焼きをしてから蒸籠で蒸し、タレを浸けて焼くようになりました。この蒸すという行程で 鰻の余分な脂肪分を程良くとり、また柔らかく口当たりが良くなります。 これを醤油・酒・味醂をベースにしたさらっとしたタレで焼くことで、古来滋養強壮の薬とされていた 鰻が料理として完成されました。

このような行程を経ることで鰻蒲焼は江戸前らしい小味になり一般的な食物となりましたが、 ところがこれには一つの問題がありました。鰻は生きているうちに裂き、 すぐにから焼き(「しらを入れる」と言います)をしなければ美味しくなくなってしまいます。 また蒸籠で蒸した鰻は大変熱い上に柔らかく、訓練をした人間でなければ焼くことが難しくなりました。 このようにして鰻料理は店も職人も専門化してきたと思われます。

 
 

鰻丼の誕生

日本料理は酒の肴としての料理であると言われます。そもそも洋の東西を問わず、料理の発達は 如何に酒を旨く飲ませるかと言うことにありまして、現在でこそ「こんな料理にはこういう酒が合う。 (ワインなど)」などと通は言いますが、これは流通が発達して、いろいろな酒が手にはいるように なってからの楽しみ方で、もともとはそこ飲むことが出来る酒に合わせて料理を工夫すると言う事が 料理発達の歴史であったはずです。 ちなみに私見ですが鰻料理には日本酒ならばやや辛口、ワインならば一寸渋みのあるやや重めの 赤ワインが合うと思います。

閑話休題、現在でも料理屋(或いは旅館など)では御飯は酒盛りの後、料理がなくなってから 汁物と一緒に出てきます。鰻料理も江戸時代以前は勿論、蒲焼が今のような形になった 江戸時代中期以降も酒の肴としても食されてきましたが、鰻蒲焼というすばらしい料理は、 日本料理の枠を越えて高級な食事としても発達していきました。

今でも見ることの出来る深川辺りを描いた錦絵や黄表紙の挿絵には「江戸前大かばやき、附めし」 と幟を立てた鰻屋を見ることが出来ます。この「附めし」とは、 「当店では蒲焼だけでなく御飯の用意があります。」と言う意味で、天明の時代に霊岸橋の大黒屋がはじめ、 すぐに江戸中の鰻屋がまねをしたとされています。 これが鰻丼の起源とする説もありますが、これは蒲焼に御飯をセットした物と考えるのが適当なようです。

鰻丼の起源として言われているのは「文化の時代に日本橋堺町の芝居金主大久保今助が、 蒲焼の冷めるのを嫌って御飯の中に入れて(一説では御飯の上に置いてふたをして)おき、 芝居の間に食べたところ大変美味しかったのでこれを真似する者が出てきた。」と言う説、 「四谷伝馬町の三河屋某に務めていた男が暇を貰い、丼の飯に鰻蒲焼を さし挟んで64孔で売り出したところ大変繁盛したが徐々に値段は高くなっていった。」とする説、 「関西風の蒲焼は蒸さないため冷めるとすぐ堅くなる。これを御飯と一緒に食べるため、 蒲焼を一口大に切って御飯の中に入れておく。これを「まぶし飯」から「まむし」、 或いは「間で蒸す」から「まむし」という。これが江戸に伝わり鰻丼になった」とする説、 そのほかにも牛久沼発祥説、など諸説ありますが、何れにせよ江戸中期には鰻丼(鰻重)の形が整い、 いわゆる店屋物の始まりは鰻であります。

さて鰻の価格についてですが、記録によりますと「鰻蒲焼1皿176~200文、鰻飯100~200文」 とあり、米1石1両=4貫文と言うレートに換算すると、米1升(1.3㎏)が40文、 米1㎏500円とすると蒲焼の値段は3000円前後、鰻は江戸の昔より高価な食べ物だったのです。

 
 

鰻の養殖事始め

15年ほど前に鹿児島の池田湖に怪獣が住んでいる、と言う噂が立ち、マスコミが大挙して取材をして おりましたが、結局大きな鰻であったという騒動がありました。 鰻という生物は、海から川を上り、川やそれにつながる池・沼・湖などに生息し、成長してまた海に帰り 産卵するというサイクルで生活をしておりますが、何かの拍子で(例えば天変地異などにより棲家の湖 や池が閉鎖されてしまうなど)海に帰ることが出来なくなるとその場の主として巨大化してしまうことが 儘あります。

江戸時代よりこの習性に目を付けて、川を堰き止め大きな池にして鰻や、鯉、鮒などを生け簀のように 住まわせるという事業は良く行われていたようです。例えば明和年間出羽のさる藩主が堀に鰻を放流 したとか、会津の松平容敬が猪苗代湖に鰻を移植したというような記録があります。しかし餌を与えて 育てて行くというわけではなく、あくまで公共事業としての移植であり、養殖と呼ぶことは出来ません。

鰻の養殖の創始者と言われる人は

 慶応2年  寺田彦太郎  (静岡県福田→愛知県桑名)
 明治12年 服部倉治郎  (東京府深川→静岡県舞阪)
 明治24年 原田仙右衛門(静岡県新居)
       那須田又七  (静岡県舞阪)
 明治29年 奥村八三郎  (愛知県神谷)

などがあげられます。

これらの人々に共通することは、養殖の現場として静岡県西部から愛知県東部、旧国名で言えばと遠江 から三河に掛けてに集中していることです。現在でも鰻の養殖日本一は奥三河一色であります。 また静岡県も今でこそ生産量では第4位に没落していますが、(第1位愛知県、第2位鹿児島県、 第3位宮崎県)昔からの産地で、浜松には「うなぎパイ」なる銘菓まであります。これは気候が温暖 で安定した平地で、川または湖の海に流れ込む間際で(一色は矢作川、舞阪・新居は浜名湖、 福田は太田川、吉田は大井川)淡水が程良く海水に混じり合う周囲であることが共通点です。

さてリストの一番最初の寺田彦太郎は福田(現静岡県磐田郡福田町'ふくで'と読む)の庄屋で、 横須賀藩主西尾隠岐守(神奈川県ではなく現静岡県小笠郡大須賀町)の命によって太田川の築堤・ 開墾工事を行い、その際に出来た池にウナギ・フナ・スズキ・クロダイ・ボラ等が棲みついたのを見て、 水門を設けて養殖場にしたとのことです。 これは偶々巧く言ったと言う僥倖の産物で意図的に鰻を養殖したわけではないようです。 彼が計画的な鰻の養殖を始めるのは明治29年愛知県桑名に移ってからでした。

本邦初(他の国で鰻の養殖が行われた記録はないので世界初?)の鰻の養殖は 服部倉治郎と言うことになります。

 
 

鰻養殖の父 服部倉治郎

初の計画的な鰻の養殖は服部倉治郎によって明治12年東京市深川区千田新田(現東京都江東区千田) に於いて行われました。

服部家は代々続く長州藩御用の「鮒五」と言う川魚問屋で、その時代としてはかなり裕福な町民であったと 思われます。千田新田は享保年間に開発を始めた埋立地で、深川十万坪とも言われる広大な土地でありました。 服部家はこの中に田畑と池を所有する地主でもあったと思われます。

江戸末期より深川周辺では町民・下級武士による金魚の養殖が盛んに行われており、服部家も金魚・鯉・ 鮒の養殖を行っていました。倉治郎の最初のテーマは鼈(スッポン)の養殖でありました。 慶応2年倉治郎の父が飼育に成功、明治8年に倉治郎が人工孵化に成功、しかしスッポン料理の本場は 上方で、関東ではあまり需要があったとは思われず、彼は別の養殖にチャレンジしていきます。

倉治郎は川魚問屋としてウナギの商品価値を熟知していた上、ウナギの幼魚であるクロコがとれても商品 とならず、捨てられたり川に戻されたりしていることを熟知していました。 そこで倉治郎は自分の土地である千田新田の2haの荒れ地の池に、幼魚のウナギを放して養殖し成魚に して販売することを始めました。

これにより江戸時代には季節的な漁獲量の変化により不安定であったウナギの供給が、 安定的に供給されるようになり、深川周辺の本場の鰻屋はだいぶ助かったのではないかと思われます。 またスッポンの養殖に比べ設備投資が少なく(養鼈には逃亡防止の柵や産卵場が必要、初期の養鰻には 池さえあれば後は不要)、需要は多く、大変当たった養魚でありました。

倉治郎は時の政府の勧業振興策に乗り、明治16年には合資会社千田養魚場と言う会社を興し、その後 水産伝習所(後の東京水産大学)の淡水養殖実験場の研究員となり、千田養魚場に東京大学の箕作博士、 石川博士を招き、二博士は鰻・鼈の研究をすすめ世界に英文で発表しています。 また自身も水産博覧会・内国博覧会など大正3年までに12回もの表彰を受けています。

さて「明治30年愛知県幡豆郡一色町(奇しくも現在日本一の鰻の養殖地)に愛知県水産試験場が設立 されるため、同地に出張する途中、浜名湖畔を見て「これは養殖に最適な土地である。」と途中下車し、 明治33年養殖を開始した。」とされています。 しかしこの話しはかなり眉唾で、実際はこの地で養殖が巧く行かない那須田又七等に招致されて やって来たのでしょう。

当時東海道線が全通した頃で、浜名湖は関東・関西の二大消費地に等距離であり、将来を見越しての 措置だったのでしょう。そして鰻の養殖を教え、かなり集約的に生産することが可能になりました。 そしてスッポンの養殖もこの地に移し、舞阪の名家中村家と合弁で「服部中村養鼈場」を興し、 (現在同社のスッポン市場におけるシェアは全国の60%)名実ともに浜名湖を鰻の産地にしました。

 
 

鰻の養殖その後

服部倉治郎によって商業化に成功した鰻の養殖ですが、その後は静岡県を中心として主に東海地方で 発達していきました。鰻の養殖は豊富な水と温暖な気候が必要ですが、大井川河口、浜名湖周辺、 三河湾周辺はその条件にぴったりでした。

その養殖の方法は、川魚漁で採れた鰻の養魚(クロコ)を池に放ち餌を与えて商品として通用する大きさ (1㎏あたり4から8本)に育てるという方法でしたが、昭和の初期に鰻の稚魚(シラス)が海から川に 遡行する時期(11月末から2月頃)に河口で採取してこれを養成していくという方法に変わりました。 当時に餌は生の鰯などの魚をそのまま与え、路地池で2年から3年かけて養成していきました。 それでも昭和30年代までは多くの川や湖で鰻の漁獲があり、養殖鰻は一段低く見られていたことも 事実です。しかし昭和40年代高度成長期になりますと日本各地の河川は開発され、それにつれて 鰻の漁獲は減少し養殖鰻の需要は一気に増大していきます。 減反政策で廃田にした田を鰻の養殖池に変えていく農家もありました。この頃新幹線で静岡駅を過ぎ 浜松駅の先までの平地には多くの鰻養殖池を車窓から見ることが出来ました。この頃またも技術革新 がおきました。

一つが餌の配合飼料化です。魚の漁獲量が減り、魚価が高騰したことにより生の餌を与えることが 出来なくなってきました。 配合飼料は魚粉に澱粉とビタミンなどの薬品を加えたものが鰻の餌の主流になってきました。

もう一つが温室化です。鰻は温かいところでは早く大きくなる性質があり、これを利用して池をビニール ハウス化して暖房をおき、早く養成してしまおうという試みです。 この試みは大成功し、丁度鶏肉がブロイラー主体になったように鰻も1年弱で製品になるようになりました。 これら2つの技術革新によって養成途中で死んでしまう鰻が減り歩留まりが改善されましたが大きな 落とし穴がやってきました。石油ショックです。

ビニールハウスにおける養殖は当然ながら燃料費がかかります。そこで何人かの養魚家はもっと温暖な 地へ池の移転を考えます。その答えが台湾への進出でした。 彼らは台湾に渡り池を作り、技術を教え、合弁で事業をおこしていきました。 しかし第二の落とし穴が待っていました。日中国交正常化です。

日本と中華人民共和国が国交を回復する事は、中華民国(台湾)と国交を断絶することでした。 台湾に進出した養魚家は日本に帰国し、養殖池は台湾人に委ねられることになります。

養魚家にとっての悲劇は日本・台湾国交断絶にも関わらず、経済的な交流はむしろ加速して いったことです。彼らは台湾に鰻の養殖のライバルを作りに行ってしまったことになりました。 このような例はエビの養殖など同様な例はありますが、鰻はその中でもっとも顕著でした。 なぜならば鰻をこれほど大量に消費する国は世界中に日本しかないからです。

 
 

鰻の一生

一口に鰻と言ってもいろいろな種類があり、全世界で18種類確認されています。

普通鰻屋がお客様にお出しする鰻は、日本鰻(アンギラ・ジャポニカ種)と言い、中国沿岸から台湾・ 韓国・日本の日本海側・太平洋側では利根川周辺までの河川に多く分布しています。

1996~7年頃この鰻の稚魚が大変高騰して新聞紙上を賑わせました。 その対策として最近よく見かけるようになったのがフランス鰻(アンギラ・アンギラ種)です。 この鰻はヨーロッパの河川に多く分布し、日本鰻に比べて胴長短足(人間と逆のようです。)で、 関東風に半分に切ると何となくバランスが悪いので、通常は長焼(半分に切らず長いまま焼く焼き方で、 本来関東では鰻が小さい場合に2本または3本まとめて焼く焼き方。)の状態で売られています。 フランス鰻は10年以上前から輸入されてきましたが、ここ数年中国での養殖が増え、スーパーなど ではかなり多く売られるようになっています。 一度とっくりと眺めてみて下さい。

 さて、日本鰻はどの様な一生を過ごすのでしょうか?   マリアナ海溝の近くで産卵・孵化された鰻の稚魚(レプトケファルス)は北赤道海流に乗り、台湾付近で 黒潮に乗り換えて中国・台湾・韓国・日本の河川にのぼってきます。 このころには体長5~6㎝ほどになりシラスと呼ばれます。 養殖業者はこのシラス鰻を捕獲して育てるため、12月から4月上旬までの新月の夜に、河口で捕獲の 漁が盛んに行われます。

この窮地を乗り切った鰻は、上流へ住処となる場所を求めてのぼって行きます。 この遡航力は大変な力で、ダムをのぼったり、陸に上がり田畑を突っ切ったりするとも言われています。 このころ体長は6~15㎝で全身が黒くなりクロコと呼ばれるようになります。 成魚になるためには最低2~3年かかり、寒い地域では冬はドロの中で冬眠します。

餌としては虫、小魚、川海老などを貪欲に何でも食べます。今までの記録では50年生きた鰻が存在 したと言われますが、普通8年くらいまでに成熟し、秋口に産卵のため絶食して川を下っていきます。 このころ大きい物は体長1m以上体重1.5㎏以上にもなり、下り鰻と言われます。

川から海に出た親鰻は黒潮から小笠原海流に乗って、生まれ故郷のマリアナ沖にやってきます。 そこで産卵をして一生を終えます。従来は海溝の深い部分で産卵すると考えられてきましたが、現在では 産卵場はグアム島沖東経142度付近の海底4000mから水深16mにそびえ立つ海山(島にならない 海底の突起)付近と考えられており、1998年には東京大学の調査船が潜水艇で調査しましたが、 完全に解明は出来ませんでした。 また孵化する時期は5~6月の新月の晩と考えられており、今後の調査結果が楽しみです。

鰻の研究は徐々に進み、研究室で人工孵化に成功しましたが、孵化したレプトケファルスの餌が何か 判らず、商業化の目途は全くなく、自然の摂理に人間が手助けをしているだけなので、海洋汚染の防止や、 シラス鰻の乱獲防止が業界内で叫ばれていますが、未だ有効な対策が行われていないのが現状です。

 
 

▲Page Top